メッセージ

2023年6月11日(日)のメッセージ

主の眼差しに導かれて

聖書箇所 (ヨハネによる福音書 1章43〜51節‬‬‬‬:日本聖書協会 新共同訳 新約聖書)

矢野眞実

「自分の生命を捨てて、人の生命を助けた人たちの偉大さを思わずにはおれません。その事は、人を愛するということを思う時に、どこか心の底で重く重く私を引きおろします。自分の生命を捨てて、他の人の生命を救うということは、イエスさまの十字架と結びつきます。それは私にはできないという点で、いやおうなく納得できるのです。私にはできないということが、私にとって人生問題の根拠になっています。

しかし、一つの問題がひそんでいます。身代わりになってくれた人への感謝が自らの内からだけでなく、まわりからも強要される時、感謝は感謝でなくなり、恵みは恵みでなくなります。・・・キリストは私たちの愛を要求し、感謝を強要し、その逃れられない証拠として罪を指摘し、罪意識をかきたて、人間を奪う方でしょうか。そこにはもはや、恵みはありません。・・・それとも、私が甘えているのでしょうか。

私は、キリストが私のために私の身代わりなって死んで下さったということを、本当は知っていません。知っていたら、苦しくて生きられないはずです。私はキリストに対して感謝しているとは言えません。本当に感謝していたら、おちおち寝てもいられないからです。しかし、だからといってキリストを知らないのでもなく、感謝していないのでもありません。変な言い方しかできませんが・・・」

東京の三鷹教会(日本基督教団)で牧会された清水恵三という牧師の証しの一説です。証しはこの後、どのように続くのでしょうか。そして、本日の聖書が示唆するメッセージと、それはどのように関係するのでしょうか。

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