2023年7月30日(日)のメッセージ
それでもなお、生きる者として
「主なる神はアダムを呼ばれた。『どこにいるのか』」
(創世記 3章9節:日本聖書協会 新共同訳 旧約聖書)
牧師 伊藤真嗣
創世記3章は、聖書全体を凝縮したような人間の「罪の問題」が描かれています。 「その日、風の吹くころ、主なる神が園の中を歩く音が聞こえてきた。アダムと女が、主なる神の顔を避けて、園の木の間に隠れると、 主なる神はアダムを呼ばれた。 「どこにいるのか。」」(8-9)
神の足音(口語訳)が聞こえてくると、蛇にそそのかされ、神の命令を破り園の果実を食べてしまったアダムとエバは、罪の意識に襲われ、心が急変し、裸であることを意識して急に恥ずかしくなりました。自分を覆いたくなった。「隠したく」なったのです。
この人間の初めの罪「原罪」について、アダムとエバのこの話を読みながら、わたしたちが罪を犯し、その結果として罪責感と恥の意識との中にあるとき、これを取り除こうとして努力することに気付かされます。でも、たとえ一時的にでも良い行いをしてみても、罪の記憶をごまかそうと、到底「裸の恥」を覆い隠すことはできません。神さまが備えてくださったイエス・キリストという方だけが、わたしたちの「裸の恥」を覆うことができるのです。
それはわたしたちが自分の罪を認め、悔い改めて、イエス・キリストを救い主として信じることです。それによって、すべての罪が赦され、新しくされます。
罪と恥とは取り除かれ、神さまとの関係は回復され、人との関係も回復へと導かれていくのです。「どこにいるのか」と神の前で問われる時、イエスさまと共にいる時、私たちは「はい、私はここにおります」とお応えしたいと思います。