メッセージ

2023年10月1日(日)のメッセージ

行いの実

「主は争うために構え 民を裁くために立たれる。」
(イザヤ書‬ ‭3‬章13節‬:日本聖書協会 新共同訳 旧約聖書)

牧師 伊藤真嗣

イザヤ書3章は主の「最後の審判」の混乱の様子が書かれています。これはイザヤの初期の預言なので、ユダが繁栄に酔い、享楽にふけっていた時に、ユダの将来の悲惨を預言したということになります。その民の中で耳を貸したものがどれほどいたでしょうか。

14節で万軍の主は長老や支配者達は、パンや水の供給を絶ち、指導者たちをユダから取り去られます。一方、ユダを治める王はまるで子供のように気ままな政治をするため、「無政府」のような状態となり、政治社会の混乱をきたします。争いが絶えず、権威に盾をつき、身分の低い者が高貴な者をあざ笑うようになります。少しでも他よりも勝っていると思われるとなると指導者にされてしまうほど、不安定な社会となってしまうのです。

人間は状況が良いと傲慢になり、自分が何者かのように思い神を忘れます。逆に状況が思わしくないと悲嘆にくれ神にすがります。このように大きく揺れるのが人間かもしれません。しかし主は傲慢を打ち、悲嘆にくれる者には希望を与えてくださいます。
クリスチャンは大揺れするこの世にあって、み言葉を伝えることによって揺れ幅を「修正する役割」が与えられているのだと思います。私たちにもイザヤのような役割があるのです。

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