2023年10月15日(日)のメッセージ
神の愛は公正
「主は裁き(ミシュパト)を待っておられたのに、見よ、流血(ミスパハ)、正義(ツェダカ)を待っておられたのに、見よ、叫喚(ツェアカ)。」
(イザヤ書 5章7節:日本聖書協会 新共同訳 旧約聖書)
中野バプテスト教会協力牧師 坂元幸子
本日み言葉の宣教の任をいただき心から感謝いたします。藤沢教会には15年籍を置きその内13年は牧師を務めました。使徒パウロのフィリピ教会に対する祈りの言葉、「わたしは、あなたがたのことを思い出すたびに、わたしの神に感謝し、あなたがた一同のために祈る度に、いつも喜びをもって祈っています」(フィリピ1:3)は、私が藤沢の地と藤沢教会に対して持っている思いそのものです。それは神さまの特別な恵みへの感謝と喜びです。
今朝のイザヤ5章1~7節は先週学ばれたように「ぶどう畑の歌」の箇所です。主なる神さまが丹精を込め愛を注いで育てたぶどう畑であるイスラエルは、神さまの願いに反して酸っぱいぶどうしか実らせない期待はずれのぶどう畑となってしまいました。7節の「裁き(ミシュパト」と「流血(ミスパハ)」、「正義(ツェダカ)」と「叫喚(ツェアカ)」はヘブライ語で似た響きでありながらまったく正反対の意味を持つ単語の言葉遊びで、神さまの嘆きと落胆を強く表現しています。「ミシュパト」は「裁き」と訳されてはいますが「罰を与える・懲らしめる」というよりもむしろ「神の公正・正義が成る」、つまり、神さまのみ心に適う秩序が保たれることを意味しています。神さまの秩序、それは、イスラエルの背信にも関わらず民を決して見捨てることのない神さまの愛と救いそのものです。
イスラエルと周辺地域は聖書の時代から紛争の地、流血の場所です。それは残念ながら数千年経った今も変わりません。自らの正義をふりかざして敵を殺すことが神の愛を実現するのではありません。「平和を実現する人々は幸いである」(マタイ5:9)と言われた主イエスのみ言葉に聴きつつ、すべての人を愛する神の公正が成ることを求めて祈りましょう。