2024年2月11日(日)のメッセージ
何のために
「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。」
(ヨハネによる福音書 9章3節:日本聖書協会 新共同訳 新約聖書)
牧師 伊藤真嗣
本日は信教の自由の日の礼拝です。2月11日は「建国記念日」ですが、1960年代以来、日本のキリスト教会(宗教界)では、「信教の自由を守る日」として覚えています。しかし、その中心はあくまで「主」であって、私たちには「自覚的な信仰」が求められます。命を与えてくださった神さまに感謝しつつ、信仰を与えられた私たちが「どう信仰を守り生きていくか」を考えることが、私たちの希望、信教の自由ではないでしょうか。
ヨハネ9章は、盲人である目の見えない人が見えるようになったという「しるし」について記されています。わたしたち人間は皆、実は生まれながらに障がいや弱さを抱えて生きています。しかし「弱い時こそ強い」というパウロの言葉にあるように、私たちの目を開いてくださるのはイエスさまであり、自分自身を認める勇気と恵みに気付くことが最も必要なことなのです。「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」(2)という弟子たちの問いに対して、イエスさまは「神さまの業がこの人に現れるためである」(3)と答えました。罪や原因を追いかけるのではなく、「何のために」と思うことが大切です。神さまの目的を知り、わたしたちが「見えない」ものを「見えるように」なるために、そして光の中を歩くことができるようになるために、神さまの御業は現されていくのです。
盲目な者が、主イエスを信じることができました。彼は難しいことは何一つわかりませんでしたが、ただ主の「み言葉」に従ったのです。「神の業が現れる」とは、まさにこのことをさしています。罪にまみれ、暗闇の中で迷子になっていたわたしたちは、イエスさまの十字架の愛の犠牲によって、光に輝く希望への道を、「主よ、信じます」という言葉によってまっすぐに歩くことができるようになることなのです。