メッセージ

2024年5月26日(日)のメッセージ

祈りと遊びの日曜日


(詩編92篇 1〜7節‬‬‬:日本聖書協会 新共同訳 旧約聖書)

湘南台バプテスト教会 牧師 西野修平

日曜日は安息日とも呼ばれます。安息日とは、神様が休むように定められた日です。その理由は2つあります。(1)神様ご自身が休まれたから神様が六日の間世界を創造するために働き、一日を休みの日として取り分けられたのだから、人間もまたそれにならうべきだ、ということです。「働く/休む」というリズムは、神ご自身が創造された世界と関わり合う中で生み出されたものです。ここで大事なのは、11節に「主は安息日を祝福して聖別された」とあるように、なにかを「する」(行為)ことを止めて、ただ「ある」(存在する)ということ自体が神聖な出来事なのだということです。(2)神様が配慮してくださったからエジプトでイスラエルの祖先たちが、400年間を一日の休みもなく働かされました。そこでは一日たりとも休みがありませんでした。その結果、もはや人々は人格を持った人間ではなく、奴隷とみなされるようになりました。彼らはピラミッドを建設するための機械にされました。人間性は拭い去られました。だから、誰に対しても、そのような人間性の否定が起きないようにするために、安息日を守ることが命じられています。その人が「いる」ことよりも、その人が何を「する」ことができるかによって他の人を眺めはじめる時、私たちは人間性を切り捨て、共同体を破壊することになります。いずれにしても安息日とは、その人が存在することそれ自体を見つめ、その人の中に存在する神様の似姿、イエス様の似姿を覚えるためにあります。そして、世界と私たちを創造して下さった主をほめたたえ、イエス様の十字架の贖いのわざを思い起こし、分かち合う日が安息日なのです。
このことが詩編で詩人が歌っている、御手の業、御業、御計らいなのです(6節)。神様の創造の業とイエス様の十字架の贖いの業なのです。

詩篇92編は、聖書の中でも安息日との結びつきが特に深い詩編です。安息日になされることを見ると「祈りと遊び praying and playing」という2つのことが見えてきます。身体を休めるだけが安息ではなく、身体を動かすことも安息となります。そのような安息日に共に与かることを祈りつつ。

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