メッセージ

2024年6月16日(日)のメッセージ

信じ、義とされた

「アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。」
(創世記 15章6節‬‬‬‬:日本聖書協会 新共同訳 旧約聖書)

牧師 伊藤真嗣

15章1節では幻の中で神さまの言葉が臨みます。「恐れるな、アブラムよ。 わたしはあなたの盾である。 あなたの受ける報いは非常に大きいであろう。」(1節)しかし、神さまが「恐れるな」と神の約束をしたにも関わらず、アブラムは神さまの言葉を信じきれない自分を経験します。そのアブラムも、子が生まれるとの約束を信じきれず、苦悩し、主に問いました。

熱心な信仰は良いものですが、時に人への押し付けや自己実現になってしまうことがあります。伝道をするにはまずはそれが御心であるか主に祈りつつ、忍耐と責任を持って自分自身の信仰を「吟味」する必要があります。荒野でイエスさまが悪魔から誘惑を受けた時、「あなたの神である主を試してはならない」(マタイ4章7節) と言われたのは、神の御心を知りながら試すことを戒められたのです。しかし、もっと怖いのは、「みことばが与えられた、これが正しい…」と、自分勝手に確信する人です。「然りは然り、否は否」(ヤコブ5章12節)とし、分からないことは「分からない」と主に問えばよいのです。結果は神さまに委ねましょう。

アブラハムも長い間子どもが出来ず、やっとできた子どもも神さまに捧げる試練を通りました。しかし最後はそんな神さまの約束を「信じる」ことができた。「望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認」することができたのです。わたしたちもこの忍耐強い神の愛に感謝し、アブラハムのように神の義を「ただ、信じる」ことのできる者として立たせていただきましょう。

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