2025年2月2日(日)のメッセージ
エチオピアの宦官
〜献身という生き方
「道を進んで行くうちに、彼らは水のある所に来た。宦官は言った。「ここに水があります。洗礼(バプテスマ)を受けるのに、何か妨げがあるでしょうか。」
(使徒言行録 8章36節:日本聖書協会 新共同訳 新約聖書)
牧師 伊藤真嗣
サマリアの町に福音を伝えたフィリポに、主の天使はエルサレムからガザへと続く道に行けと伝えました。当時その道は、今と違って誰でも自由に往来することができましたが、ひとけのない「寂しい道」でした。その道をエチオピアの宦官で女王(カンダケ)の全財産の管理を任されていた高官が通りがかりました。エルサレムへ礼拝に来て帰る途中でした。
エチオピア人の高官はユダヤ人ではなく異邦人でした。当時宦官とは「去勢された者」であり、申命記23章には「睾丸のつぶれた者、陰茎を切断されている者は主の会衆に加わることはできない」とされていました。彼の言葉、「ここに水があります。洗礼(バプテスマ)を受けるのに、何か妨げがあるでしょうか。」(36)に考えさせられます。
彼がバプテスマを受けるために必要な資格は何もありませんでした。ただ、フィリポから福音を聞いたこと、バプテスマを受けたいという思いが与えられたこと、そしてそこに水があったことだけで、彼は決心をしました。彼をバプテスマへと導いたのはフィリポではなく神です。神の招きは、人に何の資格も条件も求めません。献身とは、自らの道ではなく、神の道に共に立つことです。あなたは誰と一緒に立っていますか。バプテスマを受けて喜びにあふれた高官のように、自分の場所から降りて、主のために喜びあふれる歩みへと導かれますよう心から祈ります。 御心(神のおこころ)を求めて、礼拝に今一度共に立ちたいと思います。