メッセージ

2025年11月9日(日)のメッセージ

召天者記念礼拝
「死んでも生きる」

「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。」
(ヨハネによる福音書‬ ‭11章25‬‬節:日本聖書協会 新共同訳 新約聖書)

牧師 伊藤真嗣

最近、藤沢教会でも親しい人たちが次々と亡くなっていき、「年を取ると言うことは寂しいことだ」との声を聞きます。確かに、段々と体が無理がきかなくなり、同世代や親しい人がいなくなることは寂しいことですが、しかし、今日の聖書のように、ラザロとその兄弟の物語を通して、「死んでも生きる」ことが私たちには約束されています。
「見よ、兄弟が共に座っている。なんという恵み」(詩編133:1)という聖句のように、私たちは天国での再会が約束されていて、主を信じる者にとっては、私たちには想像がつかないほど、「喜び楽しむ場所」で、その天国を待ち望むと、死ぬことへの恐れも消えていくと聖書は語ります。

この世においては、「死」は永遠の別れです。しかし、キリストを救い主と信じる者にとって死は終わりではありません。今は地上に残された私たちも、やがて天に帰る時が来ます。その時に、先に天に帰った人たちと再会することができるのです。愛する人との別れの悲しみは決して消えるものではありません。地上で語り合えない寂しさは拭いきれるものではありません。しかし、天国への希望はその心に小さな灯火となり前に向かう力となります。

確かに神さまがなさることは私たちには分かりません。実際ラザロようによみがえったり、悲しみは消える事はありません。しかし、自分の考えや思いを越えて、神の臨在(神さまが共にいる)と意味を知った時、私たちは起こされ、新しい主の出来事が与えられるのです。「わたしはよみがえりであり、命である」(26)

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