メッセージ

2025年11月16日(日)のメッセージ

仕えるということ

「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、 いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。」
(マルコによる福音書‬ ‭10章43‬-‭44‬‬‬節:日本聖書協会 新共同訳 新約聖書)

牧師 伊藤真嗣

「あなたがたは、自分が何を願っているのか、分かっていない」(38)主イエスの語る言葉は厳しいものでした。彼らはいつもイエスさまに近付きたい、隣にいたいと、弟子達も神の国ではその場所と地位を望みましたが、神の国は右左と分かれるようなものではありません。ヤコブとヨハネの発言は波紋を起こし、まわりも反発します。

「互いに主に仕える」とはどういうことなのでしょう。牧師と執事会、各会、総会も同じです。人中心ではなく神中心に仕える教会でないと必ず教会は崩れます。今日の聖書は教えます。本当に偉い人、人の上に立つに相応しい人というのは、「自分が一番偉いんだ、一番上なんだ、もっとイエスさまに褒めてほしい」と権威をかざして威張っている人ではありません。今日の聖書で主イエス自身が「仕える」(ディアコニア)ということを弟子達に示されています。それは、まさしく「多くの人の罪の身代金として自分の命を献げる」人のことです。2千年前、最も低くなり十字架の「自分の命を献げる」ことによって、主イエスは人々に、痛み恐れるわたしたちに仕えてくださったのです。

私たちはどうなるか分からないと、不安になるし恐れます。誰も責任を負いたくないし、言い訳をしたり、自分には背負えない、これが精一杯ですと、自分に失望した上で、挫折した上で、それでも神に振り返った時、「従います」と本当に言える時、そこにこそキリスト者としての生き方、イエスの十字架の道に従う道が開けてくるのです。そこからキリスト者としての本当の生き方が始まるのです。それこそが真の「仕えるということ」(タイトル)なのではないでしょうか。私たちは誰とどこに立つのか、今日もみことばから問われています。

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