2026年3月22日(日)のメッセージ
ベタニアで香油を注がれる
(したいときに)
「はっきり言っておく。世界中どこでも、福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう。」
(マルコによる福音書 14章9節:日本聖書協会 新共同訳 新約聖書)
牧師 伊藤真嗣
受難節を迎え、キリストの十字架を覚え祈る時を過ごしています。日々の生活でキリストを感じて、1人1人にキリストが問われていることを受け止めているでしょうか。
本日の聖書箇所は、一人の女が、売れば300デナリオン以上になるような高価な香油が入っていた壷を割って、惜しみなくその香油をイエスに注ぎかけた時の事が書かれています。その時、そこにいた人の反応です。「無駄使いするな。それだけのものがあれば、たくさんの困っている人に施してやれるのに」と抗議したというのです。
他の福音書にはもっと具体的に書かれています。(マタイ26:3-13、ヨハネ12:1-8)
「そこにいた人」はマタイでは「弟子たち」と書かれ、ヨハネには「イスカリオテのユダ」とはっきり名前が指摘されています。この時代、お客様が家に到着した時、その人に数滴の香油をかける習慣がありました。この女が持っていた壷には「ナルド」が入っていて、それは遠いインドからきた、珍しい植物から作られた、非常に高価な香油だったのです。それを見た人が抗議するのは当たり前だったのかも知れません。そんなことをするなら、貧しい人に施せるのに・・・。
今の現代でも、多くの人たちが「したい」という思いが湧き出て、愛の行為を実践しようとしても、社会全体がその行為を受け入れようとしなければ、そのことは阻まれてしまいます。そういう意味で、世界が、社会全体が、学校が、地域が教会が共通の思いになる事が大切なのです。1人の「したい」という思いを共有し、それが御心から聖書に共に聴きながら、「したい」という意志を明確にする。それが今、ここに置かれたわたしたちにチャレンジとして示される、神さまのお考えなのだということを、それが、大切な意味なのだということを、今日の聖書を読んで、イエスさまは私たちに寄り添い語りかけてくださっているのです。
受難節を迎えて、世界の争いや貧困の中で大切ないのちが守られて、一人一人が尊重されすべての人が自由に生きていける社会になりますように心から願います


