2026年10月25日(日)のメッセージ
神の義
「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。」
(マタイによる福音書 6章33節:日本聖書協会 新共同訳 新約聖書)
牧師 伊藤真嗣
「神の国と神の義を第一に求める」とは、具体的にどういうことでしょうか。 聖書において「義」とは、人が守るべき正しい道を意味します。そして、神様から「義とされる」とは、神様によって「正しい者」と認められ、そのように取り扱われることです。聖書は、神様から正しいと認められた人を「義人」と呼びます。しかしその一方で、使徒パウロは次のように語っています。
「義人はいない。ひとりもいない。」(ローマ人への手紙 3:10 / 口語訳)
人間はみな、生まれながらの罪人であり、自らの力で完璧に正しい人(義人)になれる者など一人もいません。これは単に「人は時々間違いを犯すこともある」というような、道徳的なレベルの話ではないのです。聖書の言葉を読み進める中で、特に心がひきつけられるのは「罪を見逃して(くださる)」という恵みの言葉です。
思い返せば私自身も、学生時代に罪の意識と強い葛藤を抱え、神様から心を離してしまった経験があります。人間はこれほどまでに神様から離れ、自分勝手な生き方をしてしまう存在です。それにもかかわらず、神様は私たちの罪を「見逃して」くださるというのです。一般社会の常識で考えれば、「罪を見逃す」ことは間違った対応です。犯罪を見過ごしたり、犯人をかくまったりすれば、共犯や罪に問われてもおかしくありません。それなのに、神様は私たちの罪を見逃してくださる――。ここに、人間の理解を超えた神様の深い愛があります。
この罪に満ちた生き方から抜け出し、本当の平安を得るための第一歩。それは、自分自身の人生をイエス・キリストに「明け渡す」ことです。自分の力や考えにしがみつくのをやめ、キリストに人生を委ねること。そして、聖書のみ言葉によって自らの心を満たしていくこと。これこそが、私たちが何よりも優先すべき、最も大切なことです。11月に間もなく入り、今年もクリスマスに向かいますが、十字架の主と深く出会うことで、初めて私たちは自分の罪の深さを知ります。そして罪を知るからこそ、それを超える「神さまの愛」の大きさに気づき、心からの感謝が湧き上がってくるのです。イエス・キリストの尊い大きな犠牲によって、私たちは今、「義」と認められました。この圧倒的な恵みの事実を、素直な心で受け取ろうではありませんか。さあ、自らの罪を悔い改め、主の赦しと愛の中に進み出ていきましょう。


